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2009-12-13

簡単に

久しぶりに

実存主義と構造主義が開けてしまった心の穴を、新自由主義は埋める効果があったのか、
他に、この穴を埋める方法がなければ、また復活するのだろう。

次、
著作権強化の動き
    と
     それに反発する動き ストールマンや海賊党、そして日本の同人活動

そして
作ったり、研究したり、創作活動をする人たちではなく、著作権や特許で利益を上げる人たちは金融資本主義に似ている。


2009-05-10

新自由主義は人間の生殖活動も否定する

まじめに最近はテレビなんて見なくなった。特に北野誠ばーにんぐ事件以降は、バラエティーを見ることは893に資金を供給しているような気にさえなる。家でテレビがついていると、消してまわり、テレビを見るくらいならyoutubeを見るように言っている。

そんな私だが、この前、たまたまテレビがついていて、そこに久しぶりに見る痩せたオタキングがいた。彼の物事のとらえ方は、以前から私好みなのだが、そこから導かれる結論は、私とは違うことが多い。
今回、彼は、未婚率増加に関して、最近男性が草食系といわれるように女性に消極的になったのは、女性と付き合うために時間やお金を費やすことが割りに合わないと気づいたからだというような主張をした。
確かに結婚なんて、1個体としては、自分の自由に使える時間もお金も減るし、子供など出来たら、もう何も残らないかもしれない。
私の場合、ここで思いつくのは新自由主義の基本の一つ”個々の人間は自分の利益を最大化するという行動基準で動く”という仮定だ。
今の若者は新自由主義の精神をまさに体現しているのだ。

そして改めて新自由主義の傲慢な考えに嫌気がしてきた。
どんなことでも、それが生物としておかしいと判断できれば、その時点でその元になってる考えが、間違っている。
生殖活動さえ否定しまう考え、この元は、新自由主義に相違ない、みんなが利己的に進むとそうなるのだ。客観的に生きるのはいいが、生物的に間違っていると考えられるときは、経済学に魂を売るようなことは、やめて、野生の動物、猫、鳥たちの営みを眺め、生物としての魂を取り戻し、客観的な判断、経済学の判断は、時に、無視する必要がある。
経済学が、社会構造まで変えようとすることは間違いなのだ。以前の記述

2009-03-29

経済学不信 金融工学なんて飲んだくれの経済学と同じ


経済学については、それほど深く知っているわけではありません。でも、理科系中心に生きてきた私としては、経済学というものを純粋な学問と呼んでいいのか疑問に思うことがよくあります。


金融工学と呼ばれる手法は、現実の経済活動を数式で完全にとまでいわないまでも、だいたいの部分は把握できると人々に思わせていました。そして計算どおりに動かない時は、社会の仕組みが歪んでいるからであると、逆に社会制度を変えていきました。
このような行為は、今振り返ると、ロシアで国家を挙げて行われた社会主義の実験と変わらないように私には見えてきています。

経済学が謙虚さを失いその未熟な技術で世界を改革しようとした時
経済学は人々を救う学問だといいだした時
ネオコンもマルクスも所詮、同じ穴のムジナなのではないか
                             そう考えてしまいます。

そもそも経済学は自然科学のように謙虚に真実を追及する姿勢は持っていないように思われます。
自然科学では観測された事実が絶対です。ところが、経済学では実際の統計は誤差があるとか、恣意的なものが働いているとかいう理由で、実測データが軽視されています。
このような雰囲気の中で生み出される学問は、結局は”声が大きいものが勝つ”というその程度のものではないでしょうか。

ノーベル賞受賞学者クルーグマンは、著書”格差はつくられた”の中で経済学が、ブッシュ政権の意図を暴きだし、アメリカ社会を支配してきた裏の理念を突き止めることができたとしています。
そう、経済学は分析手法の一つとしては有効ですが、それだけで、社会を変えるべき根拠にしてはいけません。
経済学で会社の経営や生産調整をするのは正しい行為ですが、経済学を根拠に雇用制度や司法制度を変えたり、社会福祉の縮小を図ってはいけません。
今の経済学では、まだ社会全体を捉えきれていませんし、捉えきれていないことを自覚さえできていないのではないでしょうか。私には、今回の不況が、それを証明しているように思えるのです。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

2009-02-15

いろいろ起きます

いろいろ起きてます
別にたいしたことは、起きないけれど、
最近、予想外の雑用がぽつぽつと発生しているので、
こんな時は、守備固め、
早めに寝ることにします。

テーマ : どうでもいいこと。
ジャンル : 日記

2009-01-12

大衆は啓蒙し指導しなければいけないと考える文系の民






大衆は啓蒙し指導しなければいけないと考える文系の民


ご注意:現在、ここの文章はいろんな思い付きがごちゃまぜ状態のスパゲティーです。


このblogでは、経済学などの文系学者、官僚、大企業のエリートといった、今の社会を動かし、時にひっかきまわしている集団(ここではこれを”文系の民”と呼ぶこととする)を批判的書くことが多いが、それは彼らが今の日本の重要事項決定に際し、中心的な役割を果たしているため、より良い社会の構築に向けた提案をしていこうとすると、必然として彼らの問題点を探し出さざるおえないからだ。
今回は、彼らが、自分たちこそが大衆を啓蒙し指導しなければいけないと考えてしまう、その原因について考えてみた。
まず、思いつくのは、最近の潮流(特に、ここでも時々述べている新古典主義、シカゴ学派経済学、新自由主義など)に自分たちがうまく乗っているという自信であるが、これについては他の項でも述べた。ここでは、もう一つ別の要因も挙げておく。それは、教養といわれるものである。
教養の役割についても、教養というものがなぜ必要かでまとめ中であるが、教養による知識は優越感をもたらし、”文系の民”内部での連帯感を強固にする。これが逆向きに働いてしまい、この集団を閉鎖的にしてしまい、お節介な”大衆を啓蒙し指導する”という考えをひきおこしてしまっているように思えるのである。


もちろん、今まで教養が社会の発展のために役立ってきたのは事実だろうし、幅広い視点でものを見る習慣をつけ、独善的になることにも歯止めもかけていると考えられる。また、集団を閉鎖的にしてしまうことでさえ、意思決定をする議論への参加人数ほどよく抑え、参加者の質を高め、効率を上げる働きもあったと思われる。
教養をあまり否定しだすと、カンボジアのポルポト派になってしまう。


ところで、最近のこのあたり様子は、さらなる新しい要素が加わってきていると考えている。
新自由主義や自己責任といった考えを推し進めれば、実用的でない教養は否定的に扱かわれる。結果として、教養による連帯感というものは弱まってしまってきている。教養の役割は文系の民の結束強化から、自己の満足のためという目的に移りつつある。
では、教養というものが時代遅れになりつつあるのか?
いや違う。教養がエリートの結束をいう役割を解かれたことで、今、既存の社会から解き放たれ、新しい社会への土台作りに役立つようになったと私には思える。




このページの文章は書きかけであり、その程度のものと考えてお読みください。


テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:morinotorisan
ここは思いついたことをまとめて、自分のために保存しているところです。人に読んでもらう目的ではないので、日本語になっていないところもあると思いますが、そういう理由です。それなのに何故公開しているのかって?間違った考えがあれば正していただくためです。
返事はしませんが、mailは、gmailでmorino.toriまで。

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